何だって!?境内に供養等?桶狭間発祥地跡だって!?こりゃ~行って見なければなりません。
別にガイドブックを見た訳でも、地図で確認していた訳でもない。なんとな~く何かありそうと思って何気な~く歩いて来ただけなのに、こいつぁ儲けた!
ゆるい坂道の先に境内入り口。説明書きがある。天文7年(1537年)創建の西山浄土宗のお寺だ。
長福寺略縁起によると、義元の軍勢が桶狭間に到着した時、この寺の僧が酒食を献じたと伝えられる。また、寺伝によると義元に仕える林阿弥(りんあみ)が今川方武将の首実検を命じられたとある(!!)
合戦戦没者供養塔。すごく立派な石碑だ。
そう言えば、入り口の碑に書いてあった『桶狭間発祥の地』ってどういう事かな。
ほぅ~、桶狭間という地名の由来か、なるほど。昔は桶が回るほど水が湧き出ていたと見られる。
何気なくやって来たと思ったこのお寺、実は何かに惹かれていたのかも・・・そんな事を思っていると、境内入り口から一眼レフのちょっといいカメラを持った男性がやって来た。
あっ、きっとこの人歴史オタク。人の事全く言えた義理ではないが、こういう類の趣味を持った人にナウい人はいない。みんなジーパンにシャツを入れている様なダッサイ格好をしている。そのせいか少々老けて見えがちだが同じくらいの年代だろうな。
思い切って話しかけてみた。・・・歴史オタクさんですか?なんて、単刀直入にはさすがに聞けない。
歴史の写真を撮って歩いていらっしゃるんですか?と大人っぽく。
怪訝な顔をしながら、そうですけど・・・と、ちょっと警戒。あのぅ、もしご存知であれば教えて頂きたいんですが、この辺りで桶狭間の戦いを感じられる史跡とか信長に由来のある場所とかご存知ないですか?さっき古戦場公園へは行って来たんですけど・・・
オタクの目が一瞬キラッと光り、車?と聞く。いいえ、歩きです。ここまでは列車とバスで。あ~そう、歩きかぁ~、この辺りは車で回るなら見所満載なんだけどね。僕も以前歩いて回って迷ってね、失敗したと思ったから今日は車で出直したという訳。そうか、歩きかぁ・・・
そう言いながらも、桶狭間古戦場はもう一つ中京競馬場付近にも伝説地があるとか、義元が本陣を置いた場所がどこそこにあるなど、色々な事を教えて下さった。そして松剣があまりゆっくりも出来ないのだと知るや、バスならこの池の向こうのバス停に『何とかの松』ってあったよ、何の松だったかなぁ・・・行ってご覧、すぐそこだから。
そうですか、有難うございます。今度は自分もレンタカー借りてもう一度出直して来ますとオタクにお礼を言い、早速教えてもらった場所へ。
『評定の松』だった。今川方の武将、瀬名伊予守氏俊が、かつてここにあった松の根元に部将を集めて戦いの評議をしたとある。松、ちっちゃ!台風や虫害で惜しくも枯れてしまったので、当時の評定をしのぶ場所として植樹したからだった。
誰もが一番槍の服部か首級を挙げた毛利の手柄だと思った。しかし信長が一番手柄としたのは意外な人物だった。
沓掛に住む地侍、梁田(やなだ)政綱だった。梁田は有力な3つの情報を信長に伝えたとされる。
1つ目は今川軍2万5千の内、2万は別の方へ進み義元本隊は5千。進んでいる方向から目的地は大高城だと思われる事。
2つ目は沓掛城と大高城の中間である桶狭間付近で昼休憩を取るのではないかという事。
そして3つ目は義元は馬ではなく輿で移動している事だった。
信長はこの情報を元に、桶狭間で休憩中の義元本隊を奇襲し大将さえ討ち取れば良しとして、輿のある所に狙いを定める作戦を考えたのだ。
現代にも通ずる情報収集の大切さを既にこの頃から理解していた信長。この戦での勝利により、信長の事を『うつけ』と思う者は居なくなっただろう。
本当は合戦に至るまでに両軍が進軍したルートや砦、城などもっと丁寧に回りたかった。
いつかきっと又来たい。そう思わせる何かがここ桶狭間には確かにあると感じた。
次回、歴史探訪最終回。お楽しみに!
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