桶狭間、駆け足だったけど来て良かった。次はレンタカー借りようかな。それとも、もう一度ゆっくり歩いて見るのも良いかもな。
善照寺砦公園から豊明市の桶狭間古戦場伝説地まで約8㎞、8つの名所を歩くコースも楽しそう。歩くだけで2時間、各史跡見学時間を入れると3~4時間か。
他にも戦国を感じる「尾張の大うつけコース」や「豊臣秀吉・加藤清正誕生地コース」、「前田利家・慶次ゆかりの荒子散策コース」などがHPで紹介されている。
名古屋は歴史の宝庫。必ず又来よう。そう思って桶狭間を後にした。
次に目指すのは『万松寺』。バスで名鉄有松駅に戻り金山で地下鉄に乗り換え上前津駅へ。そこから歩いて5~6分、アーケードの商店街にあると言う。
地下鉄を降り駅員さんに聞いた通り大須商店街を目指す。アーケードのある所へ来ると大きな招き猫の広場へ出た。何かイベントの準備中でテレビも来ている。
たいそう賑やかな商店街。土曜日の昼と言うこともあり人通りも多い。
名古屋に来て感じたのは、場所や規模の事ではなく、街の雰囲気が「大阪と東京を足して2で割ったような」印象。東京ほど洗練されていないが大阪ほどチンドンしていない。(あっ、失礼!)東京ほどツンツンしていないけど、大阪ほどフレンドリーでもない。そんなイメージ。しかしここの商店街はかなり大阪チックだった。
大きな商店街だな。東西南北に通りが貫き、それぞれに食べ物屋さんや洋服屋さんなどが立ち並ぶ。
招き猫から北へ商店街を行くと中程に突如として現れた目的の『万松寺』。ちょっとお祭りみたい。
天文9年(1540年)、信長の父信秀により織田氏の菩提寺として那古野城の南側に建立された。
因みに那古野城は今川義元の父、氏親(うじちか)が築城。30年ほど存続した後廃城となり、それから半世紀後に家康によって今の名古屋城が築城された。名古屋城と言えば信長と思いがちだが、実は関係はない。
万松寺、開山は信秀の伯父の大雲永瑞(だいうんえいずい)大和尚。ここで信秀の葬儀が行われた。それだけの事?と思う事なかれ。この葬式の時の信長の振る舞いが凄いのだ。
2つ違いの弟、勘十郎信行(或いは信勝(のぶかつ))は正装して礼儀正しく振舞っていたのに対し、家督を継いだはずの兄信長はいつまで経ってもやって来ない。ようやくやって来たと思うとその格好たるや、居合わせた人々を驚愕させる。
信長の元で働いていた武将太田牛一の日記を元に編纂された『信長公記(しんちょうこうき)』の記述によると、『信長御焼香に御出づ。其の時の信長公御仕立、長つかの大刀、わきざしを三五なわにてまかせられ、髪はちやせんに巻き立て、袴もめし侯はで、仏前へ御出でありて、抹香をくはつと御つかみ侯て、仏前へ投げ懸け、御帰る。』と。
袴もつけず刀を縄で腰に巻き、髪の毛は茶筅に巻き立てた格好のまま焼香台に進み出ると、抹香をカッと掴んで位牌に投げ付け帰ってしまった、と言うのだ。この時信長17歳、父信秀42歳。
家臣の間のみならず、地域でも『大うつけ』と思われていた信長。家臣の中には信長を廃嫡し弟を擁立する動きさえあった。
だが、父信秀は早くから信長の「ただ者ではない」何かを確信していて、家督は信長にと断固として家臣の進言を聞く事は無かった。
そんな大好きだった父と言う後ろ盾を失った事への不安や寂しさをこんな行動で表現したのだろうか。
そんな物語りのからくり人形があると書いてある。日に数回定時に上演されると言う。見たい!次は14:00。あと1時間どこかで時間をつぶすか・・・
しかし、あろう事か『故障中』の張り紙が・・・ショック!仕方ない。ここにはもう一つ見所がある。信長の父、信秀のお墓。本堂横から地下に行った先らしい。
この提灯を潜った先にある。
意外に質素。
そして万松寺にはもう一つ。織田家の菩提寺に何故葵の御紋?実はこのお寺で徳川家康が6歳からの2年間暮らした事でも有名。織田家の人質としてのこの2年間に信長と知り合ったと言われているが、その親密度は定かではない。
信長の「うつけ」ぶりに、周囲は相当手を焼いたらしい。これから訪ねるお寺もそんな「うつけ」な信長を、我が命を以って諫めた平手政秀の菩提寺『政秀寺』(せいしゅうじ)。
万松寺から歩いて5分ほど。商店街を抜けると退屈しないのかも知れないが、人の多さにのぼせそう。プリントアウトして持参した地図を片手に商店街の外れを歩いて行くと、大通りの反対側からでもそれとわかる立派なお寺が見えた。
信長の父信秀は、天文3年(1534年)信長が誕生すると家臣の平手政秀に信長の傅役(教育係)を命じる。政秀は古歌に通じ茶の湯をたしなみ、風雅を好む文化人でもあった
しかし乳児の頃から乳母の乳首を何度も噛み切り、その度に乳母が逃げ出すほどだったと言う信長は、成長するにつれその『かぶき者』ぶりに磨きが掛かる。
政秀は、何度言っても態度を改めようとしない信長に我が命を以って素行の悪さを改めてもらうべく『諫死』したのである。天文22年(1553年)、政秀62歳、信長19歳の時だった。
しかし政秀の長男五郎右衛門が所持していた駿馬を目にした信長が、彼の馬を欲しがったのに譲らなかった事で、主従関係にひびが入り、詫びのために切腹したと言う一説もある。
何れにせよ、その死を大そう嘆き悲しんだ信長が小牧山の南、政秀の領地である小木(こき)村に、沢彦(たくげん)和尚を開山として創建した。
しかし天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いで焼失。翌年清須に再建され、清須越えで現在地に移建された。政秀の墓はかつてこのお寺にあったが、今は市の平和公園墓地政秀寺墓域に移されている。
政秀の墓へも行きたいところではあるが、帰りの新幹線の時間も気にせねばなるまい。しかも松剣、昼飯も食っていないではないか!
そこで!またまた何度目の登場かわからないが、みゃんこさん情報による美味しいスパゲッティを食べるべく、ここから歩いて約10分のお店へ。
少し迷ってしまい、20分ウロウロしてやっと発見!スパゲッティハウス ヨコイ。昭和38年の創業で名古屋あんかけスパ発祥のお店なんだそうな。
お店のおススメは何ですか?Aランチです。うちのオリジナル、ミラカンにエビフライ付。じゃそれで。麺の増量も出来ると言う。腹減ったしなぁ・・・でもいいや、普通で。
名古屋の人、ちゃんと『エビフライ』って発音するんだ・・・ちょっと残念。
昼の時間はとっくに過ぎていたけれど、次々お客がやって来てはみんなAランチを頼んでいる。そんなに人気のメニュー、どんな味かな。楽しみだな。
うわっ、美味そう!エビフライさんはちょっとのけて、麺をあんかけに馴染ませフォークでクルクル。おおっ、美味いじゃないか!中華のあんかけとも、和食のあんかけともちょっと違う。でもどこか懐かしい昭和な味。ふちの赤いハムも昭和だね。濃い味付けの様だが、しょっぱい訳ではない。ピリッとコショウだろうか?太い麺に良く合うぞ!エビフライも良い仕事をしているよ。味噌カツ同様、やみつきになりそうな味。飽きが来ない味付けなんだろうな。
美味しく頂いた後は地下鉄栄駅まで歩いて戻り名古屋駅へ。ここで買い忘れたお土産と新幹線で食べる天むすを購入。
新幹線で食べようと思ったが、すっかり寝入ってしまい帰宅してから食べる事に。塩っ気もちょうど良い塩梅。勿論、ぷりっぷりのえびが美味しかったのは言うまでも無い。
帰りの新幹線から清洲城が見えるはず。キリンビールの工場が見えたらすぐ。今だ!動く新幹線から結構上手に撮れたかも!
2泊3日の名古屋歴史探訪、本当に楽しかった。見所満載、しかも名古屋メシ最高!何を食べても美味しかった。
歴史談義を楽しませてくれたおじさん達。道を教えて下さった方達、ありがとう。そして旅の情報提供、みゃんこさん一番手柄!ありがとう。
一人旅は気楽で良い。次回はどこへ行こうかな。彦根、安土、小谷・・・行きたい所が沢山!
旅は人を大きくする・・・身体も一回り大きくなったようだ。