2016年10月17日月曜日

頑張ったM美

寛解から僅か3ヶ月。2015年が始まって間も無い頃、がんが再発した。あまりのショックに相方は泣いた。辛い抗がん剤に耐えたのに・・・手術も何回したんだっけ・・・あんなに頑張ったのにと涙を流した。





気丈なM子さんも出来る事なら代わってやりたい。痛かろう、辛かろうとM美に隠れて涙を流していたとパパから聞いた。・・・やるせなかった。





しかしM美は、泣いてなんかいられない、生きなきゃ。自分の為だけじゃなく、家族や友達の為に生きるんだ。そう決意したものの、再び抗がん剤での治療が始まる。堪えられるだろうか、あの苦しみに・・・





昨年だったか、相方が友人達と船で釣りに行く機会があり、みんなで食べる弁当やサンドイッチなど準備してとても楽しみに出掛けて行ったのだが、乗って10分もしない内にひどい船酔いに見舞われた。釣りはおろか何一つ食べる事さえ出来なかった、という事があった。





あぁM美は毎回副作用でこんな辛い思いをしているんだ・・・船酔いなら下船すれば治るけど抗がん剤の副作用は1〜2週間く。こんな吐き気が1週間も2週間も続くなんて・・・そしてやっと楽になった頃、また次の抗がん剤を投与するんだ・・・軽々しく頑張ってなんて言えないと思ったと、涙ながらに語った。





何もかもどうでもよくなってしまい、思考能力さえ奪うと言う副作用の辛さ・・・辛さと効果が比例するわけでもなく、人間らしい生活もままならなくなる。そしてそれに耐えたところで完治の保証があるわけでもない。迷いに迷って県外での代替治療を選択した。





まりもと遠くの病院に通った日々を相方と思い出した。あれはあれでとても楽しかったから、パパの運転する愛車プリウスでの通院はちょっとしたドライブで、M美の毒舌にやり込められながらもパパにとっては楽しい時間だろうと思った。





とにかくなんでも良いから効いてくれ!お願いだから!!何度も何度も祈ったけれど劇的に良くなる事はなく、一進一退を繰り返した。少し体調の良い時期はみんなで食事をしたりBBQをする事もあったが、明らかにその回数は減っていた。





そして今年のゴールデンウィークには苦しめられていた肝臓の手術をした。完治に向けたものではなく、姑息手段ではあるが2〜3ヶ月は痛みから解放されると言う手術だった。





手術は成功し、6月には仲良し3人で女子会ならぬ婦人会で盛り上がったのだ。お洒落なイタリアンのお店でM美は出された物を全て平らげ、調子が良いんよと、本当に楽しそうだったと言う。これがM美とSちゃんの今生の別れとなるとは思いもしなかった。





医者の言う通り調子が良いのは僅かの期間だった。再び体調を崩したM美。籍を入れたJの結婚式もしてやりたい。また女子会で楽しいひと時を過ごしたい・・・そんな一心でもう一度同じ手術に踏み切ったのだが、体調は良くならないまま一時退院した。11月の誕生日が迎えられるかどうか・・・非常に厳しい2回目の余命宣告だった。





再び入院したM美だったが、パパから退院するからお見舞いに来てやってくれないか、多分これが最後になると思うからと言う電話で相方と慌てて会いに行ったのが10月1日の事だった。




本人には余命は伝えていないから・・・パパからそう聞かされ、いつも通り平静を装いM美に会った。久々に会ったM美は痩せていて、これまでで一番辛そうに横になっていた。それでもこの方が楽だからとベッドに身を起こし久々に色々な話をした。




一度退院して家に帰るけど、今度入院する時は緩和ケア病棟に入るつもりなんよ。何時に起きて何時に寝てなんて決まりも無くてね、泊まるのは無理だけどワン子も連れて来て良いんよ、と辛い表情も見せず語ってくれた。





1時間ちょっと話をしただろうか。疲れちゃいけないから今日はこれで帰るから。今度は家の方に会いに来くよ。調子が良さそうな時、連絡待っているから。





結局これが最後になった。自宅に帰った翌日には、意識は結構はっきりしていたけれどいつ心臓が止まってもおかしくないという状態に陥り、東京からJも帰郷していた。





そして10月5日の朝、お母さんが側で見守りながらJが手を握り体勢を変えようとした時、ふっと呼吸が止まりM美はその生涯を閉じた。痛がる事も苦しむ事もなく穏やかに眠るような最期だったと言う。

 

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