2015年1月31日土曜日

信じる?信じない?

松剣が初めて気功に触れたのは昨年5月、さだじぃにまりもへの気功をお願いした時だった。

まりもが旅立つ数日前も何度か遠隔気功を送って頂いたのだが、小学生の頃からピラミッドパワーや予言など不思議な力に興味を持っていた松剣がその力を確信したのは、まりもがもういよいよという時だった。

呼吸が乱れ始めたので直ぐに気を送って頂くようお願いをして電話を切った。それから15分もしないうちにまりもは逝ってしまったのだが、息を引き取って5分ほどした頃先生から電話があり、どうした事か今日はとっても気の通りが悪いから、HPのリラクゼーションのイルカの写真を開いてと言われたのだ。




















たった今逝きましたと言うと先生は、あ~そうかぁ・・・道理で気の通りがおかしいと思ったの・・・そうかぁ・・・力になれなくて・・・でもね、もう苦しくないから。ありがとうって感謝しているから悲しまないであげてね。そう言うと虹の橋でのあの子たちの様子を語って下さったのだ。

やっぱり不思議な力はあった!と思った松剣、本格的に気功を体験する機会がやって来た。(別に待っていたわけではないけれど)

先週の水曜日、右膝にいつもの違和感を感じたままいつも通りのメニューで剣道の稽古をして帰宅。違和感に変わりは無かった。シャワーを浴びた後も特に変わった感じはないまま床に就いた。


寝付いてしばらくするとあんずが布団に入れてと頭をつんつんするので、いつもあんずが入ってくる方向に寝返りを打とうとしたその時、関節が抜けるような、いつもとは違う違和感を右膝に感じた。ズキンとか、ガキッとかいう痛みではなく、何とも言えない渋~い嫌~な感じだった。その後も寝返りを打つ度にその違和感で目が覚めるほどだった。

朝になり、布団から出ようとするも右足に力が入らない。しっかり踏ん張ろうとしたら右膝に激痛が!何じゃこりゃっ!暫く立ったままじっとしていると少し痛みは和らいだものの、歩こうと右足を一歩踏み出してはううっ!又一歩踏み出してはおおっ!・・・そんな感じで何とか1階へ下りると潤滑油が回った様にちょっと楽になった。

仕事は休む訳にはいかない。それにしても先週じゃなくて良かったよぉ・・・歴史探訪どころじゃなかったわ。そんな事を言いながら、以前交通事故で靭帯を痛めた時に病院でもらったサポーターをはめて職場へ向かった。
がっちりガード!しかし歩き難い

何とか歩けるが、曲げ伸ばしが痛い。膝の裏に何か挟んでいるような、全体に鉛をまとっている様な重た~い感じ。今日の稽古は無理だな・・・帰宅して膝を見ると腫れていた。
汚い足でご無礼!向かって左の小僧が腫れてない?

相方は医者へ行けと言ったが、どうせ整形へ行ったってよー治さんに決まっとる。レントゲン取って、骨には異常ないですね(そんなんわざわざレントゲンなんか取らんでもわかっとるわ!)まぁ、使い過ぎでしょう、湿布してしばらく稽古を休む事ですな・・・それが嫌でこうして来とるんだがね。それくらいの診断なら自分で出来ます。

絶対こんな事になるのは明白。だから医者には行かないよ。気功で治すもん。
ネットで検索すると、すぐ近くの団地の中にとっても良心的な価格で、しかも遅くまで施術して下さる気功院を見つけたので、早速予約を入れた。

M先生は幼い時から不思議なものを沢山見てきたと仰る60歳前後の女性で、弟さんはもっと凄い『気』をお持ちだと言われる。母方のお祖父さんの隔世遺伝らしく、お祖父さんは村の人にボランティアで施術しておられたらしい。

簡単な問診の後、先ずは椅子に座らされタオルを頭に掛けられた。その上から軽く手を当てながら頭、首、肩へと移動させながら悪い所を探す。痛い所や悪い所は『邪気』として感じるそうなのだ。

がんを見つけて医者へ行くよう勧めた事もあると仰る。がんは独特の『邪気』があるそうなのだ。
施術に来られる中にはがんの方も居られ、再発を防ぎたいからと自ら気の勉強を始めた方も居られると言う。

軽く手を当てているだけなのに松剣の右側頭部に時々起こる片頭痛、軽い頚椎ヘルニアによる首から肩に掛けての痛さもバッチリ当てられた。

次にベッドにうつ伏せになり、肩から背中、腰、足へ、今度は仰向けになって喉、胸、腹、脚と邪気を探る。あ~、お肉が好きな胃だ~、冷たい物ばかり飲んでいる胃ねぇ、などと、手を当てただけで見破られたのには驚いた。

そして一番直してもらいたい膝。ここが痛いのねぇ、随分腫れているね・・・そう言いながら両手で膝を包み込むように邪気を取っていく。

先生は自分の気を入れるのではなく、宇宙からエネルギーをもらい、邪気は宇宙に還して浄化してもらうから、全然疲れないし世間話をしながら軽く気を入れているのだと仰る。

先生の手で随分長い時間包み込まれた膝は、ポカポカと温かくなり、ベッドから降りると痛みは随分楽になっていた。

翌日、またサポーターをして職場に行ったがあまりにも動きにくいので、相方がもう少し楽なサポーターを見つけて買ってくれた。


   その名も『ヒザラーク』って、まんまやん!


翌日起きると膝の痛みは随分楽になっていたが、膝の裏に何かを挟んだような違和感は、少し増しているようだった。そう言えば、『好転反応』があるかもしれないけど気にしなくて良いからって言われたんだ。

2回目は4日後。ヒザラークは痛くなければ曲げ伸ばしも出来るが、フリーサイズの割りに松剣の膝にはぴちぴち。びしーっと跡がついてかぶれてしまった。





そして本日3回目。随分腫れも引き、胡坐も出来るようになっている。正座はまだ無理かな。裏側に少し違和感は残っているものの、8割治っている。おまけに借金があるわけでもないのに回らなかった首がとても楽になっている。


相方は相変わらず気功なんかで治るわけないと言い張る。そうかな・・・楽になったと思うんだけど。
やっぱりそんな力は信じられるわけ無いそうだ。

2015年1月25日日曜日

うつけの時代

桶狭間、駆け足だったけど来て良かった。次はレンタカー借りようかな。それとも、もう一度ゆっくり歩いて見るのも良いかもな。

善照寺砦公園から豊明市の桶狭間古戦場伝説地まで約8㎞、8つの名所を歩くコースも楽しそう。歩くだけで2時間、各史跡見学時間を入れると3~4時間か。


他にも戦国を感じる「尾張の大うつけコース」や「豊臣秀吉・加藤清正誕生地コース」、「前田利家・慶次ゆかりの荒子散策コース」などがHPで紹介されている。


名古屋は歴史の宝庫。必ず又来よう。そう思って桶狭間を後にした。


次に目指すのは『万松寺』。バスで名鉄有松駅に戻り金山で地下鉄に乗り換え上前津駅へ。そこから歩いて5~6分、アーケードの商店街にあると言う。


地下鉄を降り駅員さんに聞いた通り大須商店街を目指す。アーケードのある所へ来ると大きな招き猫の広場へ出た。何かイベントの準備中でテレビも来ている。






















たいそう賑やかな商店街。土曜日の昼と言うこともあり人通りも多い。































名古屋に来て感じたのは、場所や規模の事ではなく、街の雰囲気が「大阪と東京を足して2で割ったような」印象。東京ほど洗練されていないが大阪ほどチンドンしていない。(あっ、失礼!)東京ほどツンツンしていないけど、大阪ほどフレンドリーでもない。そんなイメージ。しかしここの商店街はかなり大阪チックだった。


大きな商店街だな。東西南北に通りが貫き、それぞれに食べ物屋さんや洋服屋さんなどが立ち並ぶ。


招き猫から北へ商店街を行くと中程に突如として現れた目的の『万松寺』。ちょっとお祭りみたい。


天文9年(1540年)、信長の父信秀により織田氏の菩提寺として那古野城の南側に建立された。
因みに那古野城は今川義元の父、氏親(うじちか)が築城。30年ほど存続した後廃城となり、それから半世紀後に家康によって今の名古屋城が築城された。名古屋城と言えば信長と思いがちだが、実は関係はない。

万松寺、開山は信秀の伯父の大雲永瑞(だいうんえいずい)大和尚。ここで信秀の葬儀が行われた。それだけの事?と思う事なかれ。この葬式の時の信長の振る舞いが凄いのだ。


2つ違いの弟、勘十郎信行(或いは信勝(のぶかつ)は正装して礼儀正しく振舞っていたのに対し、家督を継いだはずの兄信長はいつまで経ってもやって来ない。ようやくやって来たと思うとその格好たるや、居合わせた人々を驚愕させる。


信長の元で働いていた武将太田牛一の日記を元に編纂された『信長公記(しんちょうこうき)』の記述によると、『信長御焼香に御出づ。其の時の信長公御仕立、長つかの大刀、わきざしを三五なわにてまかせられ、髪はちやせんに巻き立て、袴もめし侯はで、仏前へ御出でありて、抹香をくはつと御つかみ侯て、仏前へ投げ懸け、御帰る。』と。


袴もつけず刀を縄で腰に巻き、髪の毛は茶筅に巻き立てた格好のまま焼香台に進み出ると、抹香をカッと掴んで位牌に投げ付け帰ってしまった、と言うのだ。この時信長17歳、父信秀42歳。


家臣の間のみならず、地域でも『大うつけ』と思われていた信長。家臣の中には信長を廃嫡し弟を擁立する動きさえあった。


だが、父信秀は早くから信長の「ただ者ではない」何かを確信していて、家督は信長にと断固として家臣の進言を聞く事は無かった。


そんな大好きだった父と言う後ろ盾を失った事への不安や寂しさをこんな行動で表現したのだろうか。


そんな物語りのからくり人形があると書いてある。日に数回定時に上演されると言う。見たい!次は14:00。あと1時間どこかで時間をつぶすか・・・



















しかし、あろう事か『故障中』の張り紙が・・・ショック!仕方ない。ここにはもう一つ見所がある。信長の父、信秀のお墓。本堂横から地下に行った先らしい。





この提灯を潜った先にある。
意外に質素。                      

そして万松寺にはもう一つ。織田家の菩提寺に何故葵の御紋?実はこのお寺で徳川家康が6歳らの2年間暮らした事でも有名。織田家の人質としてのこの2年間に信長と知り合ったと言われているが、その親密度は定かではない。
信長の「うつけ」ぶりに、周囲は相当手を焼いたらしい。これから訪ねるお寺もそんな「うつけ」な信長を、我が命を以って諫めた平手政秀の菩提寺『政秀寺』(せいしゅうじ)。

万松寺から歩いて5分ほど。商店街を抜けると退屈しないのかも知れないが、人の多さにのぼせそう。プリントアウトして持参した地図を片手に商店街の外れを歩いて行くと、大通りの反対側からでもそれとわかる立派なお寺が見えた。










信長の父信秀は、天文3年(1534年)信長が誕生すると家臣の平手政秀に信長の傅役(教育係)を命じる。政秀は古歌に通じ茶の湯をたしなみ、風雅を好む文化人でもあった

しかし乳児の頃から乳母の乳首を何度も噛み切り、その度に乳母が逃げ出すほどだったと言う信長は、成長するにつれその『かぶき者』ぶりに磨きが掛かる。

政秀は、何度言っても態度を改めようとしない信長に我が命を以って素行の悪さを改めてもらうべく『諫死』したのである。天文22年(1553年)、政秀62歳、信長19歳の時だった。

しかし政秀の長男五郎右衛門が所持していた駿馬を目にした信長が、彼の馬を欲しがったのに譲らなかった事で、主従関係にひびが入り、詫びのために切腹したと言う一説もある。

何れにせよ、その死を大そう嘆き悲しんだ信長が小牧山の南、政秀の領地である小木(こき)村に、沢彦(たくげん)和尚を開山として創建した。

しかし天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いで焼失。翌年清須に再建され、清須越えで現在地に移建された。政秀の墓はかつてこのお寺にあったが、今は市の平和公園墓地政秀寺墓域に移されている。

政秀の墓へも行きたいところではあるが、帰りの新幹線の時間も気にせねばなるまい。しかも松剣、昼飯も食っていないではないか!

そこで!またまた何度目の登場かわからないが、みゃんこさん情報による美味しいスパゲッティを食べるべく、ここから歩いて約10分のお店へ。

少し迷ってしまい、20分ウロウロしてやっと発見!スパゲッティハウス ヨコイ。昭和38年の創業で名古屋あんかけスパ発祥のお店なんだそうな。

お店のおススメは何ですか?Aランチです。うちのオリジナル、ミラカンにエビフライ付。じゃそれで。麺の増量も出来ると言う。腹減ったしなぁ・・・でもいいや、普通で。



名古屋の人、ちゃんと『エビフライ』って発音するんだ・・・ちょっと残念。

昼の時間はとっくに過ぎていたけれど、次々お客がやって来てはみんなAランチを頼んでいる。そんなに人気のメニュー、どんな味かな。楽しみだな。


うわっ、美味そう!エビフライさんはちょっとのけて、麺をあんかけに馴染ませフォークでクルクル。おおっ、美味いじゃないか!中華のあんかけとも、和食のあんかけともちょっと違う。でもどこか懐かしい昭和な味。ふちの赤いハムも昭和だね。濃い味付けの様だが、しょっぱい訳ではない。ピリッとコショウだろうか?太い麺に良く合うぞ!エビフライも良い仕事をしているよ。味噌カツ同様、やみつきになりそうな味。飽きが来ない味付けなんだろうな。

美味しく頂いた後は地下鉄栄駅まで歩いて戻り名古屋駅へ。ここで買い忘れたお土産と新幹線で食べる天むすを購入。


新幹線で食べようと思ったが、すっかり寝入ってしまい帰宅してから食べる事に。塩っ気もちょうど良い塩梅。勿論、ぷりっぷりのえびが美味しかったのは言うまでも無い。

帰りの新幹線から清洲城が見えるはず。キリンビールの工場が見えたらすぐ。今だ!動く新幹線から結構上手に撮れたかも!

2泊3日の名古屋歴史探訪、本当に楽しかった。見所満載、しかも名古屋メシ最高!何を食べても美味しかった。


歴史談義を楽しませてくれたおじさん達。道を教えて下さった方達、ありがとう。そして旅の情報提供、みゃんこさん一番手柄!ありがとう。


一人旅は気楽で良い。次回はどこへ行こうかな。彦根、安土、小谷・・・行きたい所が沢山!


旅は人を大きくする・・・身体も一回り大きくなったようだ。

2015年1月24日土曜日

決戦!桶狭間 その2

そう言えば何も考えてなかったけど電柱前の碑って、お寺の碑だったよね?『長福寺』って書いてある。


何だって!?境内に供養等?桶狭間発祥地跡だって!?こりゃ~行って見なければなりません。

別にガイドブックを見た訳でも、地図で確認していた訳でもない。なんとな~く何かありそうと思って何気な~く歩いて来ただけなのに、こいつぁ儲けた!

ゆるい坂道の先に境内入り口。説明書きがある。天文7年(1537年)創建の西山浄土宗のお寺だ。




















長福寺略縁起によると、義元の軍勢が桶狭間に到着した時、この寺の僧が酒食を献じたと伝えられる。また、寺伝によると義元に仕える林阿弥(りんあみ)が今川方武将の首実検を命じられたとある(!!)
 







境内の放生池は別名『血刀濯ぎの池』。
合戦戦没者供養塔。すごく立派な石碑だ。
そう言えば、入り口の碑に書いてあった『桶狭間発祥の地』ってどういう事かな。


ほぅ~、桶狭間という地名の由来か、なるほど。昔は桶が回るほど水が湧き出ていたと見られる。

何気なくやって来たと思ったこのお寺、実は何かに惹かれていたのかも・・・そんな事を思っていると、境内入り口から一眼レフのちょっといいカメラを持った男性がやって来た。

あっ、きっとこの人歴史オタク。人の事全く言えた義理ではないが、こういう類の趣味を持った人にナウい人はいない。みんなジーパンにシャツを入れている様なダッサイ格好をしている。そのせいか少々老けて見えがちだが同じくらいの年代だろうな。

思い切って話しかけてみた。・・・歴史オタクさんですか?なんて、単刀直入にはさすがに聞けない。
歴史の写真を撮って歩いていらっしゃるんですか?と大人っぽく。

怪訝な顔をしながら、そうですけど・・・と、ちょっと警戒。あのぅ、もしご存知であれば教えて頂きたいんですが、この辺りで桶狭間の戦いを感じられる史跡とか信長に由来のある場所とかご存知ないですか?さっき古戦場公園へは行って来たんですけど・・・

オタクの目が一瞬キラッと光り、車?と聞く。いいえ、歩きです。ここまでは列車とバスで。あ~そう、歩きかぁ~、この辺りは車で回るなら見所満載なんだけどね。僕も以前歩いて回って迷ってね、失敗したと思ったから今日は車で出直したという訳。そうか、歩きかぁ・・・

そう言いながらも、桶狭間古戦場はもう一つ中京競馬場付近にも伝説地があるとか、義元が本陣を置いた場所がどこそこにあるなど、色々な事を教えて下さった。そして松剣があまりゆっくりも出来ないのだと知るや、バスならこの池の向こうのバス停に『何とかの松』ってあったよ、何の松だったかなぁ・・・行ってご覧、すぐそこだから。

そうですか、有難うございます。今度は自分もレンタカー借りてもう一度出直して来ますとオタクにお礼を言い、早速教えてもらった場所へ。

『評定の松』だった。今川方の武将、瀬名伊予守氏俊が、かつてここにあった松の根元に部将を集めて戦いの評議をしたとある。松、ちっちゃ!台風や虫害で惜しくも枯れてしまったので、当時の評定をしのぶ場所として植樹したからだった。

信長の大勝利で幕を閉じた桶狭間の戦い。論功行賞は合戦の翌日清洲で行われた。
誰もが一番槍の服部か首級を挙げた毛利の手柄だと思った。しかし信長が一番手柄としたのは意外な人物だった。

沓掛に住む地侍、梁田(やなだ)政綱だった。梁田は有力な3つの情報を信長に伝えたとされる。

1つ目は今川軍2万5千の内、2万は別の方へ進み義元本隊は5千。進んでいる方向から目的地は大高城だと思われる事。

2つ目は沓掛城と大高城の中間である桶狭間付近で昼休憩を取るのではないかという事。

そして3つ目は義元は馬ではなく輿で移動している事だった。

信長はこの情報を元に、桶狭間で休憩中の義元本隊を奇襲し大将さえ討ち取れば良しとして、輿のある所に狙いを定める作戦を考えたのだ。

現代にも通ずる情報収集の大切さを既にこの頃から理解していた信長。この戦での勝利により、信長の事を『うつけ』と思う者は居なくなっただろう。

本当は合戦に至るまでに両軍が進軍したルートや砦、城などもっと丁寧に回りたかった。
いつかきっと又来たい。そう思わせる何かがここ桶狭間には確かにあると感じた。

次回、歴史探訪最終回。お楽しみに!

2015年1月23日金曜日

決戦!桶狭間 その1

2泊3日の旅もいよいよ最終日。持参したiPadが悪いのか投稿ソフトが悪いのかエラーが出てブログの更新が出来ない。お蔭でチェックアウトの時間が予定より1時間以上も遅れてしまった。急げ!

本日の歴史探訪、先ずはあの桶狭間へ。スーツケースとお土産を新幹線口近くのコインロッカーに預け名鉄線で有松駅を目指す。次に来るのは快速、有松には停車しないので鳴海で乗り換え。めんどくさっ。それにしても夕べあんなに大きな味噌かつと白飯ガッツリ食べたと言うのに腹がぺこぺこ。戦の前に何か入れたいところだが、有松駅から桶狭間までのバスは1時間に1本しかない。取り敢えず向こうに行ってからにしよう。


幸い今日は土曜日、人も少なく迷わず有松駅到着。改札を抜けるといきなり萌える看板が!

















とにかく何か食べないと倒れそう。近くに喫茶店は無いかな。あった!と思ったら10:00開店。それじゃ遅いわ。バス乗り場で時間を確認すると発車まで30分少々。ここの駅もショッピングモールと合体した駅。ショッピングモールの中にありそう。

あったけど・・・コメダ・・・昨日も行ったじゃん。ま、いっか。昨日気になりつつ食べなかったアレを食っちゃえ!

気になっていたアレ






















と~っても気になっていた『シロノワール』の小を注文。 モーニングは付けますか?って、当たり前だろ。

松剣好みのパーフェクトコーヒー、あまりにも美味しかったので今日も同じミルクたっぷりシロップ入り1.5倍を注文。実はゆで卵も松剣好みの硬ゆで。ありがとう、コメダさん。

温かいパンケーキに冷たいソフトクリーム。そこへシロップをタラ~っとかけて頂く。冷たいソフトクリームとパンケーキの相性が悪いわけが無い。うまいっ!空きっ腹に沁みるぅ。ちょっとソフトクリームが融けはじめたところへ切ったパンケーキを付け付け・・・あ~なんてうまいんだろ。

おっと、こんなにゆっくりしておられん。バスに乗り遅れたら大変。少し早いけどバス停で待とう。
それにしても今朝は昨日のポカポカ陽気と違って寒っ!ジャンバーの前閉めとこ。

7分遅れでバスが到着。この辺りのバスって前から乗るんだ・・・しかも運賃前払い。巡回バスでどこまで乗っても210円だから。モタモタしてすみません。


名鉄有松駅から目的の『桶狭間古戦場公園』までバスで10分足らず。歩いても20分程度だが、歴史ファンのブログのどれを読んでも『止めときなはれ』と書いてある。


あの決戦の当時に思いを馳せて・・・なんてとんでもないのだと。今では普通の家が立ち並ぶ閑静な住宅地で、似たような風景の中できっと『迷う』のだそうだ。


こんな信号機を見つけた。ずっと来たいと思っていた桶狭間。やっと来る事が出来たと実感した。

幕山というバス停で降り、ホームセンターの角を曲がる。ついにやって来ました!
          























早速中へ・・・おおっ!若き日の信長。義元が何気にスマート。


永禄3年(1560年)5月12日、2万5千の大軍を率いて駿府を発った義元は、尾張を目指す。
対する信長軍は2千~3千、義元軍の10分の1。次々ともたらされる見方の砦陥落情報と多数の討死。清洲城に篭城するか出撃するか・・・この時信長は幸若舞の敦盛を舞って出陣の支度を整えると熱田神宮へ向かったと言われる。

負けるとはこれっぽっちも思っていなかった義元。見方が緒戦で次々と重ねる勝利に驕り高ぶっていたからと、この碑は伝えている。

そして永禄3年(1560年)5月19日13時、視界を妨げるほどの豪雨に乗じ義元本陣近くに兵を進め雨が上がった直後の14時頃に奇襲攻撃をかけたのだ。

太っていた為、輿で移動していたと言われる義元。輿を捨て300騎の親衛隊に周りを囲まれながら騎馬で退却しようとするも信長の馬廻りに追いつかれてしまう。

一番槍は服部小平太、首級を挙げたのは毛利新助良勝だった。義元は首を討たれる際、毛利の左指を喰い千切ったと言われる。享年42歳。信長は27歳だった。

ここが今川義元が討ち取られた場所。
討ち取られた首はこの泉で洗われた。

ここの公園の魅力はこれだけではない。当時の戦況を解説する『ジオラマ』があるのだ。

青い石は信長軍の城や砦、赤い石は義元軍の城や砦を、また、公園の園路は街道を、流れは川、池は海を表している。とても忠実に再現されていて感心する。
左が鳴海城、右が丹下砦

熱田の信長塀


中島砦はちゃんと川の交わる位置にある

向こうの東屋が家康の本陣
すごいぞ、この公園!考えた人えらいなぁ。ここもみゃんこさん情報。本当に来て良かったな。
それにしても450年前の決戦の日はどんな風だったのだろうか。現在の風景からはちょっと想像が出来なかった。

公園を後にして辺りを見回すと怪しげな杜が。まだ時間はあるからちょっと行って見よう。

杜へ行けそうな道はないかな・・・うん?何だ、この碑は?

なになに?桶狭間の合戦で人馬の血と雷雨でこの下の川が血に染まり、馬の鞍鐙などが流された・・・ふむふむ。その戦いの激しさは言を脱する。人はこの川を鞍流瀬川と呼ぶ。哀れな戦死者を寺の阿弥陀如来に託す為ここに浄土橋をかけ云々・・・

寺があるのか?この後思わぬ出会いが待っているのだった。

もうちょっと続くよ。